北の富士勝昭(きたのふじ・かつあき)は、現役時代に幕内優勝10回を達成した第52代横綱であり、引退後は九重部屋の師匠、さらにNHK大相撲中継の解説者としても長く活躍した人物です。歯に衣着せぬ発言とユーモアを交えた語り口で相撲ファンに親しまれ、千代の富士や北勝海という2人の横綱を育てたことでも知られています。
2024年11月12日、北の富士は82歳で亡くなりました。日本相撲協会の公式プロフィールによると、生涯戦歴は786勝427敗69休、幕内戦歴は592勝294敗62休。1960年代から70年代にかけて土俵を沸かせた一方、大関昇進時の異例の伝達式や日本相撲協会での不祥事、2015年の白鵬への辛口発言など、その歩みには数多くの逸話があります。2026年の今、記録と証言を手掛かりに、その力士人生と後世に残した功績を振り返ります。
【北の富士勝昭はどんな横綱だったのか?生涯戦歴と優勝10回】

北の富士勝昭は、スピードと技術、華やかな存在感を兼ね備えた横綱でした。単に勝ち星を積み重ねるだけでなく、攻めに出たときの鋭さと、思い切りのよい取り口で観客を魅了した力士です。
日本相撲協会公式サイトの「歴代横綱」プロフィールによると、北の富士の生涯戦歴は786勝427敗69休(105場所)。幕内では592勝294敗62休(64場所)を記録し、幕内最高優勝は10回に達しました。
三賞の受賞歴は殊勲賞2回、敢闘賞1回、技能賞3回。最高位である横綱に到達するまでには、三役での経験や大関としての試行錯誤があり、引退後も指導者と解説者として相撲界に関わり続けました。
特筆すべきなのは、北の富士の評価が優勝回数だけでは完結しないことです。横綱として土俵に立った時代には、玉の海との競争があり、引退後には千代の富士と北勝海を育てるという別の形の実績を残しました。加えて、NHKの解説席では現役力士の取組を分析し、勝負の見どころを一般の視聴者に伝えました。
つまり、北の富士は「10回優勝した横綱」であると同時に、土俵の内外で相撲の魅力を伝えた人物でもあります。現役時代の戦績、後進の育成、引退後の言論活動を分けて見ると、その功績の全体像が理解しやすくなります。
【美幌生まれから第52代横綱へ:北の富士の経歴を年表で整理】
北の富士は1942年3月28日生まれ。本名は竹沢勝昭で、北海道網走郡美幌町に生まれ、留萌や旭川で育ったと報じられています。日本相撲協会の公式プロフィールでは出身地を北海道旭川市としています。
1957年1月場所に出羽海部屋から初土俵を踏み、1963年には新十両に昇進。同年11月場所では十両で15戦全勝優勝を達成しました。1964年1月場所に新入幕を果たすと、スピード感のある相撲で番付を上げていきます。
以下は、日本相撲協会の公式プロフィールと当時の報道を基に整理した主要な経歴です。
| 時期 | 出来事 | 主な実績・意味 |
|---|---|---|
| 1942年3月28日 | 北海道生まれ | 本名は竹沢勝昭 |
| 1957年1月 | 初土俵 | 出羽海部屋に入門 |
| 1963年3月 | 新十両 | 同年11月に十両全勝優勝 |
| 1964年1月 | 新入幕 | 幕内で本格的に活躍 |
| 1966年9月 | 新大関 | 直前3場所は合計28勝17敗 |
| 1967年 | 九重部屋へ移籍 | 出羽海部屋からの独立を経て活動 |
| 1970年3月 | 新横綱 | 第52代横綱に昇進 |
| 1974年7月 | 現役引退 | 幕内優勝10回で土俵を去る |
| 1977年以降 | 九重部屋の師匠 | 千代の富士、北勝海らを育成 |
| 1998年春場所 | NHK解説者として活動 | 独自の視点と歯に衣着せぬ発言で支持を集める |
| 2024年11月12日 | 82歳で死去 | 同月20日に訃報が報じられる |
年表から分かるように、北の富士のキャリアは力士時代だけで終わっていません。横綱としての実績を築いた後、師匠として後進を育て、さらに相撲中継の解説者として新たな役割を担いました。相撲界に関わる立場が変わるたびに、その存在感を発揮した点が特徴です。
【北の富士の大関昇進はなぜ異例だった?横綱昇進と得意技の秘密】
北の富士の経歴で特に知られる逸話が、1966年7月場所後の大関昇進です。昇進直前の3場所は8勝7敗、10勝5敗、10勝5敗で、合計28勝17敗でした。現在よく目安として語られる「三役で直近3場所33勝」と比べると、異例の昇進だったことが分かります。
ただし、大関昇進には現在も単純な勝ち星だけで決まる明文化された基準があるわけではありません。当時の番付事情や対戦相手、相撲内容などを含めて判断されました。北の富士の場合も、豊山が一人大関だった当時の状況などが背景にあったと伝えられています。
本人も大関昇進を予想していなかったため、伝達式当日の朝は熟睡していたといいます。床山に起こされて昇進を知らされたものの、使者を迎えるための紋付や足袋を用意していませんでした。紋付は兄弟子の横綱・佐田の山から、足袋は柏戸から借りて間に合わせたという逸話が残っています。
加えて、師匠の出羽海親方夫妻も昇進を想定しておらず、部屋を留守にしていました。そのため、佐田の山が師匠代理として立ち会う異例の伝達式になりました。昇進後の活躍を知る現在の視点から見ると、後に横綱となる力士の大関昇進が、当時は本人や部屋にとっても予想外だったという点が興味深いところです。
横綱昇進への道も平坦ではありませんでした。北の富士は1969年九州場所で優勝し、翌1970年初場所では玉乃島改め玉の海との優勝決定戦を制して優勝。場所後に玉の海とともに横綱へ昇進しました。両者が並び立った時代は「北玉時代」とも呼ばれ、昭和の大相撲における重要な一時期となりました。
取り口の中心は、左四つからの攻め、寄り、上手投げ、外掛けなどです。日本相撲協会の公式プロフィールにも、得意技として左四つ・外掛け・上手投げが記載されています。突っ張りも持ち味の一つで、立ち合いから相手の体勢を崩し、素早く攻め込む相撲を見せました。
北の富士の魅力は、体格を生かした力強さだけではありません。身長185センチの長身を生かしながら、攻めのテンポを速め、相手が守りを固める前に勝負を決める。その躍動感が、甘いマスクや明朗なキャラクターと相まって人気を押し上げました。
【九重部屋と千代の富士:北の富士が相撲協会に残した功罪】
北の富士は1974年7月場所を最後に現役を引退し、年寄・井筒を襲名しました。その後、井筒部屋を興し、1977年に九重親方(元横綱・千代の山)が亡くなると、九重部屋を合併して同部屋の師匠となりました。
指導者としての代表的な功績は、千代の富士と北勝海という2人の横綱を育てたことです。千代の富士は圧倒的な強さと精悍な取り口で知られ、北勝海も横綱として優勝を重ねました。北の富士は自らの経験を次世代に伝え、横綱を育成することで角界に影響を与えました。
千代の富士が2016年7月31日に亡くなった際、北の富士は師匠として深い悲しみを表しました。デイリースポーツの報道では、千代の富士について「豪快だけど繊細」と語り、その人柄を振り返っています。師匠と弟子という関係にとどまらず、相手の長所や繊細さを見ていたことがうかがえます。
一方、北の富士の協会幹部時代には不祥事もありました。報道や人物記録によると、1982年、審判部副部長だった時期に、知人の暴力団員を千代の富士の結婚式に出席させた問題が発覚し、いったん委員に降格されました。その後、審判部副部長に復帰し、理事昇格後は審判部長などを務めました。
1990年代には広報部長や巡業部長も担当しました。2016年のインタビューでは、広報部長時代について、当時の協会はフィルムの提供などを収益につなげる考えが強く、インターネットを扱える人間もいなかったという趣旨の回顧をしています。協会運営や情報発信の変化を考えるうえでも、当事者の証言として興味深いものです。
北の富士は1998年初場所後に日本相撲協会を退職しました。協会幹部としてのキャリアには評価すべき実績と批判を受けた出来事の両方があります。指導者としての功績が大きいからといって不祥事をなかったことにはできず、反対に、一つの問題だけで長年にわたる育成実績まで否定するのも適切ではありません。両面を把握することが、北の富士という人物を理解する鍵になります。
【NHK相撲解説の評判と白鵬への発言:「北の富士賞」はなぜ生まれた?】
協会退職後の北の富士は、1998年春場所からNHK大相撲中継の解説者として活動しました。現役時代の実績に裏打ちされた勝負の読み、率直な批評、そしてユーモアを交えた語り口が支持を集めました。厳しい言葉を口にする一方、力士への愛情や相撲そのものへの深い理解が伝わることも、人気の理由でした。
元小結・舞の海秀平との掛け合いも中継の名物でした。長年にわたり、技術論だけでなく、取組を見たときの率直な感想や相撲界の裏話を交え、初心者にも観戦の面白さを伝えました。元NHKアナウンサーの藤井康生も、北の富士との交流や放送でのやり取りを振り返っており、2025年から2026年にかけても、その言葉や人柄を伝える回顧記事が紹介されています。
北の富士の解説姿勢を象徴する出来事が、2015年5月場所12日目の白鵬対豪栄道戦です。豪栄道が首投げで白鵬を破った一番は土俵際の際どい勝負となりましたが、物言いはつきませんでした。白鵬は取組後に礼をせず、土俵下でもぼう然とした様子を見せました。
この一番で北の富士はNHK中継中、「物言いが付いたとしても確認程度。子供でも分かるんじゃないですか」とコメントしました。日刊スポーツの当時の報道にも、この発言が記録されています。
発言の背景には、同年1月場所の白鵬と稀勢の里の一番をめぐる騒動がありました。白鵬は取り直しとなった判定に不満を示し、場所後の会見で審判を批判していました。北の富士は、白鵬自身が使った「子供でも分かる」という表現を踏まえ、5月場所での振る舞いを皮肉ったと受け止められました。
この発言が支持を集めたのは、単に辛辣だったからではありません。勝負の判定に対する見方を、過去の発言との整合性も含めて論じた点に、北の富士らしい批評の鋭さがありました。ただし、取組の判定と力士の態度は別の論点です。発言の背景を知ることで、当時の相撲界で何が議論されていたのかも見えてきます。
もう一つ、北の富士の名前を冠するものとして知られるのが「北の富士賞」です。これは日本相撲協会が設けた公式の表彰制度ではなく、十両で全勝優勝を達成した力士に、北の富士が個人的に賞金を贈ったことに由来する通称です。
きっかけは2005年9月場所でした。十両の豊ノ島が初日から連勝した際、北の富士は全勝優勝を達成したら何か贈るという趣旨の発言をしました。豊ノ島は全勝には届きませんでしたが、翌2006年3月場所に把瑠都が十両で15戦全勝優勝を達成。北の富士から金一封が贈られたことで、「北の富士賞」の呼び名が広まりました。
重要なのは、北の富士賞が定額の公式賞金ではなかった点です。報道では、2014年に十両全勝優勝を果たした栃ノ心には、予算上の理由から贈呈が見送られたと伝えられています。したがって、全勝優勝すれば必ず一定額が支給される制度だったわけではありません。賞金額や継続性については、公式の表彰制度と個人的な贈呈を区別して理解する必要があります。
【2026年に振り返る北の富士の功績:手形、現役時代の人気、歴代横綱との比較】
2026年現在、北の富士はすでに故人ですが、その功績を伝える回顧記事や書籍関連の企画は続いています。元NHKアナウンサーの藤井康生による証言や取材メモを基にした記事では、放送中のやり取りや人柄、相撲への思いが紹介されています。2026年1月にも、北の富士の言葉や生き方を振り返る書籍に関連した記事が掲載されました。
こうした回顧で注目されるのは、北の富士が横綱という地位にありながら、堅苦しい人物像に収まらなかったことです。日本相撲協会の公式クイズ企画では、甘いマスクや明朗な性格、話術の巧みさなどから「現代っ子横綱」と呼ばれたことが紹介されています。大関時代にレコードを発売してヒットさせたことも、当時の力士としては目を引く活動でした。
現役時代の人気を伝える品の一つが、手形や手形色紙などの相撲関連記念品です。手形は力士の存在感を身近に感じられる記念品として知られ、北の富士のように人気を集めた横綱の品を探す人もいます。ただし、個々の品については制作年代や入手経路、本人によるものかどうかを確認することが大切です。名前が記されているだけで、すべてが本人の直筆や公式記念品だと判断できるわけではありません。
歴代横綱と比較する際には、幕内優勝回数だけでなく、在位期間や同時代の競争相手、引退後の活動も見る必要があります。北の富士の優勝10回は、歴代の優勝回数上位者とは異なる規模ですが、横綱としての実績がそれだけで測れるわけではありません。
例えば、幕内最高優勝回数は大鵬が32回、千代の富士が31回、白鵬が45回です。北の富士の10回と比べれば差は明らかですが、これらの力士が活躍した時代や番付事情、競争環境は同一ではありません。優勝回数の多寡だけで横綱としての価値を単純に順位づけると、時代ごとの背景や、北の富士が残した指導者・解説者としての実績を見落とすことになります。
北の富士の功績を評価するうえでは、次の3つの視点が有効です。第一に、戦績という客観的な数字。第二に、千代の富士と北勝海を育てた指導実績。第三に、NHK解説者として相撲の魅力や問題点を言葉にしてきた役割です。この3つを分けて捉えると、横綱としての強さと、その後の影響力を混同せずに理解できます。
北の富士の生涯は、記録に残る勝敗だけでは説明できません。土俵では鋭い速攻相撲で観客を魅了し、指導者としては次の時代を担う横綱を育て、解説者としては勝負の本質を率直な言葉で伝えました。2026年に振り返る意味は、故人を美化することだけでなく、功績と課題の両方を記録に沿って受け止めることにあります。
【北の富士】に関するよくある質問(FAQ)
Q1:北の富士勝昭はいつ亡くなりましたか?
A1:2024年11月12日に82歳で亡くなりました。訃報は同月20日に報じられ、日本相撲協会関係者などを通じて死去が伝えられました。
Q2:北の富士の生涯戦歴と幕内優勝回数は?
A2:日本相撲協会公式プロフィールによると、生涯戦歴は786勝427敗69休(105場所)、幕内戦歴は592勝294敗62休(64場所)です。幕内最高優勝は10回でした。
Q3:「北の富士賞」とは何ですか?
A3:十両で全勝優勝した力士に北の富士が個人的に賞金を贈ったことに由来する通称です。日本相撲協会の公式賞ではなく、定額の賞金が必ず支給される制度でもありません。2006年3月場所に全勝優勝した把瑠都への贈呈が広く知られています。
まとめ:北の富士勝昭の記録と功績を正しく受け継ぐために
北の富士勝昭は、第52代横綱として幕内優勝10回、生涯戦歴786勝427敗69休という記録を残しました。1966年の異例の大関昇進、1970年の横綱昇進、九重部屋での後進育成、1998年からのNHK相撲解説と、立場を変えながら長年にわたって大相撲に関わった人物です。
その評価には、千代の富士と北勝海を育てた功績や、率直な解説で相撲ファンを楽しませた実績が欠かせない。一方で、日本相撲協会での不祥事や、北の富士賞が公式制度ではなかったという事実も、人物像を理解するうえで押さえておきたい点です。
2026年に北の富士を振り返る際は、優勝回数だけで歴代横綱を比較するのではなく、戦績、指導実績、解説者としての影響力を分けて考えることが大切です。土俵での強さと、相撲を伝える言葉の力。その両方を備えていたことこそ、北の富士勝昭が今も語り継がれる理由です。