1946年3月16日、東京・渋谷の自宅で歌舞伎界の名優・十二代目片岡仁左衛門と、その妻、幼い息子らを含む5人が殺害されているのが発見された。逮捕されたのは、片岡家に住み込んでいた作家見習いの飯田利明。当時、犯行動機として報じられたのは、配給米や食事への不満から生じた「食べ物の恨み」だった。
しかし、事件から77年後の2023年、事件を生き延びた娘の片岡照江さんが週刊女性PRIMEの取材で、飯田から届いた詫び状の内容や、家族が長年背負ってきた苦しみを明かした。そこには、広く知られてきた犯行動機を見直すきっかけとなる証言があった。2026年現在も読み継がれるこの事件を、発生から逮捕、裁判、犯人のその後まで整理する。
【事件の概要】1946年3月16日、十二代目片岡仁左衛門一家を襲った惨劇

片岡仁左衛門一家殺害事件は、終戦から間もない1946年3月、東京都渋谷区千駄ヶ谷の自宅で発生した強盗殺人事件である。被害者には、歌舞伎役者の十二代目片岡仁左衛門だけでなく、妻の小町とし子、幼い息子、住み込みで働いていた女性2人が含まれていた。
小町とし子は、1921年生まれの元日活映画女優で、本名は吉田登志子。十二代目仁左衛門とは1942年に再婚していた。歌舞伎界で名を知られた一家が襲われたことに加え、2歳の幼児や12歳の少女まで犠牲になったため、事件は当時の社会に大きな衝撃を与えた。
事件が発覚したのは1946年3月16日の午前中。妻の母親が訪ねてきても玄関の戸が閉まったままで、室内から応答がなかった。不審に思った母親が裏手から家の中に入り、家族らが亡くなっているのを発見したと伝えられている。
殺害された5人は、十二代目仁左衛門、妻の登志子、当時2歳の三郎、子守の岸本まき子さん、使用人の榊田はるさんだった。岸本さんは、事件の容疑者となる飯田利明の実妹でもあった。つまり、一般に「一家5人殺害」と呼ばれるものの、犠牲者の構成を正確に見ると、片岡家の家族3人と住み込みの女性2人からなる事件だった。
当時、十二代目仁左衛門は関西歌舞伎を代表する名優の一人だった。1936年に十二代目を襲名し、男役と女役の双方をこなす芸の幅広さで知られ、50歳を過ぎたころには東京の歌舞伎界に招かれていた。その名跡と芸歴を考えれば、事件は単なる一家の悲劇にとどまらず、歌舞伎界にも深い傷を残した出来事だった。
【事件発生から逮捕まで】飯田利明はなぜ逃亡し、どこで捕まったのか
事件当時22歳だった飯田利明は、歌舞伎の座付き作家見習いとして片岡家に住み込んでいた。飯田の父親は十二代目仁左衛門の仕事に関係する人物で、飯田自身もその縁から妹とともに片岡家に身を寄せていたとされる。戦災で家族や住居を失った若者が、知人のつてを頼って生活の場を得ていた時代だった。
事件後、飯田の姿が見当たらなかったことなどから、警察は飯田を重要容疑者とみて全国に指名手配した。当時の新聞報道を引用した資料によれば、飯田は事件後に東京を離れ、宮城県の川渡温泉に逃れていたところを、1946年3月20日に逮捕された。事件発生から数日後のことだった。
逮捕後の取り調べで、飯田は配給米や食事の扱いをめぐる不満、夫婦との口論などを犯行の背景として語ったと報じられた。事件直前には、仕事で書いた原稿をめぐる叱責や、妹の財産をめぐる問題もあったとする当時の報道がある。ただし、これらは主として飯田の供述を通じて伝えられた内容であり、遺族が後年語った説明とは一致しない部分がある。
事件を理解するうえでは、発生、発覚、逮捕、裁判という段階を分けて考える必要がある。事件が起きた3月15日夜から16日朝にかけての詳しい経過についても、当時の供述を基に再構成された部分と、遺族の証言によって後から明らかになった部分とが混在している。
【犯行動機の通説】「食べ物の恨み」はどのように広まったのか
飯田の犯行動機として長く知られてきたのが「食べ物の恨み」だった。戦後の食糧不足が続くなか、飯田は片岡家の家族が白米を食べる一方、自分たちには十分な食事が与えられなかったと主張したとされる。報道では、配給米の扱いや食事の量をめぐる不満が、夫人への反感と結びつき、凶行に至ったという筋書きが広まった。
この説明は、当時の社会状況とも重なった。終戦後の日本では、米や生活必需品の不足、配給の遅れや欠配が深刻化し、都市部では正規の配給だけで生活を維持することが難しかった。昭和館や国立公文書館アジア歴史資料センターの解説にも、戦後の食糧危機と配給制度の実情が記録されている。
ただし、社会全体が食糧難に陥っていたことと、飯田が語った食事をめぐる事情が事実だったかどうかは別の問題だ。時代背景が現実だったからといって、個別の事件について語られた動機まで自動的に裏付けられるわけではない。
当時の報道では、容疑者本人の供述が事件の説明の中心となった。一方、片岡家の食事事情や、十二代目仁左衛門が飯田をどのように扱っていたかについて、遺族や周囲の人物から十分な説明がなされたのかという点には、後年の証言から疑問が生じている。
「食べ物の恨み」という短い言葉は、複雑な事件を理解しやすい物語に変えた。しかし、その分かりやすさが、供述の裏付けや別の可能性を検討する機会を狭めた面もあった。2023年の遺族証言が注目されたのは、この長年定着してきた説明そのものに異議を唱える内容だったからだ。
【2023年の遺族証言】犯人から届いた詫び状に書かれていたこと
2023年4月8日、週刊女性PRIMEは、事件を生き延びた片岡照江さんへの取材記事を掲載した。照江さんは当時3歳で、事件の夜は母方の祖母の家に泊まっていたため、殺害を免れた。77年後に語られた証言は、長年「食べ物の恨み」と説明されてきた事件の動機を再検討するきっかけとなった。
照江さんによると、事件から数年後、服役中の飯田から詫び状が届いたという。手紙には、弁護人から「食べ物の恨み」を犯行動機として話せば減刑されると聞き、嘘の供述をしたことへの謝罪が記されていたとされる。
この証言が示すのは、裁判や事件直後の報道で伝えられた動機と、飯田が後年、遺族に伝えたとされる説明が食い違っているという事実である。照江さんは、片岡家では住み込みの人々とも食事を区別していなかったと話し、父が知人の遺児である飯田を気にかけていたとも証言した。
照江さんが考える本当の動機は金銭だった。加えて、父と交流のあった役者から、飯田が楽屋に出入りするようになってから物の紛失が増えたと聞いていたことも明かしている。ただし、この点は遺族が周囲から聞いた話を含む証言であり、個々の紛失事案や事件との直接的な関係が、現存する資料によってすべて確かめられたわけではない。
詫び状は、事件の経緯を考えるうえで重要な手掛かりだが、現在も原本が確認できるわけではない。照江さんによれば、手紙を事件資料として新聞記者に貸したところ、返却されなかったという。したがって、2023年の証言は動機の再検討に欠かせない一方、手紙そのものを独立した現存証拠として照合することは難しい。
もう一つ、遺族証言で問題となったのが凶器の説明だ。飯田は、廊下に立てかけられていた薪割り斧につまずいたことが犯行のきっかけになったと供述したとされる。これに対し、照江さんは凶器は片岡家のものではなく、近所に住む警察関係者の家にあったものだと証言している。凶器の由来についても、従来の説明と遺族の記憶には食い違いがある。
【事件の時系列】発覚から無期懲役判決、遺族証言まで
事件の流れを時系列で整理すると、当時の供述を中心に形成された事件像と、数十年後に遺族が明らかにした情報の違いが見えやすくなる。
| 時期 | 出来事 | 確認できるポイント |
|---|---|---|
| 1946年3月15日夜〜16日朝 | 片岡家で5人が殺害された | 飯田の供述などを基に事件の経過が報じられた。 |
| 1946年3月16日 | 事件が発覚 | 妻の母親が訪問し、室内で5人の遺体を発見したと伝えられる。 |
| 1946年3月20日 | 飯田利明を宮城県で逮捕 | 当時の新聞報道を引用した資料では、川渡温泉で逮捕されたとされる。 |
| 1947年10月 | 無期懲役判決 | 精神鑑定などを踏まえ、東京地裁で無期懲役判決が下された。 |
| 事件から数年後 | 飯田から照江さんへ詫び状が届いたとされる | 「食べ物の恨み」という供述は嘘だったとの説明が記されていたという。 |
| 2023年4月8日 | 遺族の証言が報道される | 週刊女性PRIMEが詫び状の内容や、長年の苦しみについて報じた。 |
判決時期については、資料によって1947年10月22日、10月27日と記載が異なる。ここでは月単位で整理した。いずれの記録も、飯田に無期懲役判決が下されたという点では一致している。
【裁判と犯人のその後】なぜ無期懲役となり、恩赦後はどうなったのか
飯田の裁判では、検察が死刑を求刑したとする記録がある一方、最終的には無期懲役判決が下された。判決の背景には、犯行前の精神状態や低栄養状態などをめぐる精神鑑定があったと報じられている。
文春オンラインが2024年に掲載した事件解説では、精神鑑定において、飯田が著しい低栄養状態に置かれていたことや、犯行前夜の口論によって感情の均衡を失っていたことが検討されたと説明されている。犯行時の意識状態を明確に決定することが難しいという鑑定内容を、裁判所が判決に反映したとされる。
ここで押さえておきたいのは、無期懲役という判決が、事件のすべての動機や経緯を確定したことと同義ではない点だ。裁判では、当時の証拠や供述、精神鑑定などを基に刑事責任が判断される。その判断と、後年に遺族が明らかにした詫び状の内容は、異なる時点・異なる資料に基づく情報である。
飯田のその後については、1960年代に恩赦によって釈放されたとする報道がある。しかし、釈放の具体的な年月や手続き、その後の生活については、報道で確認できる情報が限られている。晩年の詳細についても、確かな資料に基づく一貫した説明は見当たらない。
恩赦は、行政権によって刑罰や裁判の効力などを変更・消滅させる制度であり、法務省は政令恩赦と個別恩赦などを説明している。ただし、一般的な恩赦制度の仕組みを理解することと、飯田に適用された手続きの詳細を確定することは別である。個別の経緯については、事件に関する報道と制度の一般説明を混同しないことが大切だ。
【戦後の社会背景と供述の食い違い】事件の真相をどう読み解くべきか
片岡仁左衛門事件の背景には、戦後の深刻な物資不足があった。1945年の終戦後も、食糧供給はすぐには回復せず、配給の遅れや欠配が都市生活を圧迫した。米をめぐる不安や生活格差が、人々の間に強い緊張を生んでいたことは、昭和館や公的な歴史資料からも確認できる。
しかし、戦後の食糧難は、飯田の犯行を説明する唯一の原因でも、正当化する理由でもない。事件では、飯田自身の供述、精神鑑定、当時の報道、遺族の記憶、詫び状についての証言という複数の情報が存在する。それぞれの性質を見極めずに一つの物語へまとめてしまうと、重要な矛盾を見落とすことになる。
特に注目すべきなのは、飯田の供述と遺族の証言の間にある、次の3つの違いだ。
- 犯行動機:当時は食事への不満が強調されたが、照江さんは詫び状を根拠に、食べ物の恨みは虚偽で、金銭が動機だったと説明している。
- 片岡家での生活:飯田は食事の扱いに不満を抱いていたと供述したとされる一方、照江さんは住み込みの人々とも食事を区別していなかったと証言している。
- 凶器の由来:飯田の供述では廊下にあった薪割り斧が犯行のきっかけとされたが、照江さんは凶器が近隣の家にあったものだと説明している。
これらの違いは、遺族の証言が重要であることを示す一方、すべての争点が新しい証拠によって最終的に解決したわけではないことも意味する。とりわけ、詫び状の原本が返却されず、現存が確認できないという事情は、後年の証言を検証するうえで大きな制約となる。
事件の真相を考える際には、「当時の報道が伝えた内容」「裁判で判断された内容」「2023年に遺族が証言した内容」を区別して読む必要がある。犯行動機について、食べ物の恨みが唯一の確定した説明であるかのように扱うのも、反対に詫び状の内容だけであらゆる疑問が解消したと考えるのも、資料の性質を超えた解釈になってしまう。
【片岡仁左衛門事件】に関するよくある質問(FAQ)
Q1:片岡仁左衛門事件はいつ起きた事件ですか?
A1:1946年3月15日夜から16日朝にかけて、東京・渋谷区千駄ヶ谷の十二代目片岡仁左衛門宅で発生した事件です。3月16日に5人の殺害が発覚し、同居していた飯田利明が逮捕されました。
Q2:犯人の飯田利明はなぜ5人を殺害したのですか?
A2:当時は配給米や食事への不満を背景とする「食べ物の恨み」が犯行動機として報じられました。一方、2023年に片岡照江さんは、飯田から届いた詫び状には、その動機は減刑を意識した嘘の供述だったと記されていたと証言しています。照江さんは本当の動機は金銭だったと説明していますが、詫び状の原本は現在確認できず、動機をめぐるすべての疑問が解消したわけではありません。
Q3:飯田利明にはどのような判決が下されましたか?
A3:1947年10月、東京地方裁判所で無期懲役判決が下されました。精神鑑定などで検討された犯行時の精神状態が、判決に関係したと報じられています。
Q4:飯田利明はその後どうなりましたか?
A4:1960年代に恩赦によって釈放されたとする報道があります。ただし、釈放の具体的な年月や、その後の生活、晩年については詳しい情報が限られています。
Q5:2023年の遺族証言で何が明らかになったのですか?
A5:片岡照江さんが、事件から数年後に飯田から届いた詫び状の内容を明かしました。そこには「食べ物の恨み」という犯行動機は嘘だったとする説明が記されていたといいます。また、片岡家の食事事情や凶器の由来についても、従来の説明とは異なる証言が示されました。
まとめ:片岡仁左衛門事件の真相を見極めるための判断基準
片岡仁左衛門事件は、1946年3月16日に発覚した、十二代目片岡仁左衛門一家と住み込みの人々を襲った凄惨な殺人事件である。飯田利明は宮城県で逮捕され、1947年10月に無期懲役判決を受けた。長年、犯行動機は「食べ物の恨み」として知られてきたが、2023年の遺族証言によって、その説明には再検討すべき点があることが明らかになった。
事件を理解するうえで重要なのは、食糧難という社会背景だけで犯行動機を説明しないこと、当時の供述と後年の証言を同じ種類の証拠として扱わないこと、そして詫び状が現存していないという制約も踏まえることだ。遺族の証言は、長年定着した事件像を見直す重要な手掛かりである一方、すべての争点に最終的な答えを与えるものではない。
また、事件を振り返る際には、被害者を「歌舞伎界の名優とその家族」という枠だけで捉えず、2歳の幼児、12歳の少女、69歳の使用人も含め、それぞれの人生が失われた事実を忘れてはならない。事件の記憶を正確に伝えることは、誤った動機説明によって遺族が受けた苦しみを繰り返さないためにも欠かせない。片岡仁左衛門事件の真相を考えることは、歴史的事件において、何が事実として確認され、何が証言として残り、何がなお解明されていないのかを見極める作業でもある。